なぜ普及しない?問題山積み「無痛分娩」
キッズパーク豆知識
2025.08.08
少子化対策の一環として、東京都は全国で初めて無痛分娩にかかる費用の助成を実施する方針を打ち出しました。
これにより妊婦が出産方法を選びやすくなり、「出産は苦しんでこそ」という価値観に対して新たな視点をもたらす可能性があります。
期待が高まる一方で、医療現場には依然として多くの課題が残されているのも事実です。
ベビーシッターに伺った先で「私は無痛分娩だった」という母親に会ったら、いろいろと聞いてみてください。
(※2025年4月19日 朝日新聞の記事を参考に要約しています。)
目次
妊婦の6割が希望、壁と課題とは
「無痛分娩を希望する妊婦は増えているが、費用の高さがその実現を妨げている」
東京都八王子市に住む会社員の西田翔子さん(36)は、3年前に第1子を出産した際、24時間体制で無痛分娩に対応している地元の産院を選びました。
未知の痛みに対する不安が大きく、「耐えられる自信がなかった」と当時を振り返ります。
第1子は逆子だったため、帝王切開で出産。昨年10月に迎えた第2子も帝王切開の予定でしたが、産院に到着した時点で子宮口が開いていたため、医師の判断で無痛分娩に切り替えることになりました。
陣痛の緩和のため、徐々に麻酔を投与し始め、麻酔が効いてから出産までにかかった時間は約4時間。
「完全に痛みが消えたわけではないが、我慢できる程度だった」
と話します。
分娩中にスマートフォンを操作する余裕もあり、体力の消耗も少なかったそうです。
無痛分娩では、硬膜外麻酔と呼ばれる方法が主流で、脊髄の近くに局所麻酔を施すことで、呼吸を整えたり、血圧の上昇を抑えたりする効果が期待できます。
出産後の疲労感が軽減されたと感じる人も多いと言われています。
日本産婦人科医会の報告によると、2023年に同会員施設で無痛分娩を受けた人は9万9235人に達しました。
また、東京都が2024年に行った出産経験者約1万人への調査では、約6割が無痛分娩を望んでいたといいます。
ところが課題となっていたのが費用負担です。
厚生労働省や東京都のデータによると、正常分娩の平均費用は2023年度で都内では62万5372円。
これに対して国の出産育児一時金は50万円のため、差額は自己負担となります。
無痛分娩を選ぶ場合、さらに平均12万3633円が加わり、経済的な負担は決して小さくありません。
都の調査によれば、無痛分娩を希望しながらも選択を断念した理由として、約3割が「費用の高さ」を挙げていました。
こうした現状を受け、東京都は無痛分娩にかかる費用について、最大10万円の助成を行う制度を開始する方針を明らかにしました。
2025年度予算では関連経費として12億円を計上しており、2025年10月からの半年間で約9500件の利用を見込んでいます。
ただし、安全面への配慮も不可欠です。
無痛分娩においては、麻酔の処置ミスによって重い障害や死亡事故が発生した事例もあるため、都は助成対象を厚労省の基準を満たし、届け出をした医療機関に限定しています。
さらに、安心して無痛分娩を選べるようにするため、都は医療従事者向けの研修なども推進していくとしています。
「無痛分娩関係学会・団体連絡協議会(JALA)」のウェブサイトでは、無痛分娩を提供している医療機関の情報を公開しており、件数や麻酔科医の症例実績も確認できます。
日本産科麻酔学会も、無痛分娩を希望する妊婦に対し、早めに担当医に相談するよう呼びかけています。
不足する麻酔科医と地域格差の現実
無痛分娩への関心が高まる一方で、出産に関わる医療現場からは、その急速な需要の増加に対する懸念が上がっています。
日本産科麻酔学会の照井克生理事長は、「これまで費用面で無痛分娩を断念していた妊婦が一斉に希望するようになると、医療現場が対応しきれない恐れがあります」と指摘しています。
最も深刻な課題は、無痛分娩を支える麻酔科医の数が圧倒的に不足している点です。
厚生労働省のデータによると、全国の医師32万7444人のうち、麻酔科医は1万350人にとどまり、慢性的な人手不足が続いています。
特に産科を専門とする麻酔科医はごくわずかです。
現在も24時間体制で麻酔科医が待機し、常に無痛分娩に対応できる施設は限られています。
日中に分娩を誘導する「計画無痛分娩」についても、1日あたりの実施件数に上限を設けている医療機関が多く、対応体制を広げるのは簡単ではありません。
また、地域によって対応状況に大きな差があるのも現状です。
東京都が昨年実施した調査では、都内の医療機関のうち64%が無痛分娩に対応していると報告されていますが、JALA(無痛分娩関係学会・団体連絡協議会)の情報によると、岩手県や高知県では無痛分娩を実施できる施設が存在せず、他の県でも対応可能な医療機関は限られています。
そのため、今後希望者がさらに増加すれば、麻酔科医の確保をめぐって、神奈川、埼玉、千葉など近隣地域からの人材引き抜きが起きる可能性があるとの懸念も医療現場から出ています。
十分な人材が確保できない施設では無痛分娩に対応できず、結果として分娩件数が減少し、経営に悪影響を及ぼす可能性もあります。
日本大学の田倉智之・主任教授(医療経済学)は、「医師の奪い合いのような事態になれば、本末転倒です。
各地域で、本当に必要な人が適切に無痛分娩を受けられる体制づくりが重要です」と述べています。
東京都の助成については、「この政策は無痛分娩の普及に向けた議論の出発点になる可能性があります」と評価した上で、「本来は国全体で無痛分娩に関する助成制度を検討し、それに基づいて自治体が体制を整えるのが望ましい」と話しています。
無痛分娩に対応する施設が存在しない地域については、「中核となる病院が無痛分娩を提供できるよう、自治体が財政的支援を行い、段階的に体制を整えていくべきだ」と提案しています。
無痛分娩に残る偏見「痛みこ耐えてこそ」を見直すとき
東京都が無痛分娩への助成を決定した背景には、国際的な動向とのギャップもあります。
今年1月、小池百合子都知事は朝日新聞のインタビューで、「世界の多くの国では無痛分娩は一般的な選択肢となっており、高い割合で実施されています」と述べました。実際、2019年に日本産科麻酔学会がまとめたデータによると、全出産に占める無痛分娩の割合は、フランスで80%、アメリカで70%、韓国では40%と、海外では無痛分娩が主流となっている国が多く見られます。
一方、日本の無痛分娩率は2023年時点で13.8%にとどまっており、増加傾向にあるとはいえ、依然として低水準にあります。
日本で無痛分娩が広がらない要因のひとつとして、医療体制や保険制度の違いが挙げられます。
海外では分娩を大型医療機関に集約することで麻酔科医の配置がしやすく、かつ保険の適用により妊婦の経済的な負担が軽減されています。
これに対し、日本では正常分娩は公的医療保険の対象外となっており、現在、国の検討会で保険適用の是非を含めた議論が始まった段階です。
また、文化的な背景も無痛分娩の普及を妨げている一因です。
神奈川県立保健福祉大学の田辺けい子准教授(助産学)は、「日本では『おなかを痛めて産んだ子』という表現に代表されるように、出産の痛みが特別な意味を持ち、それを乗り越えることが母性の証しとされてきました」と話します。痛みを経験することが当然とされ、それを前提とした価値観が根強く残っています。
こうした中、東京都の無痛分娩支援策について、田辺准教授は「女性の苦しみに正面から向き合った意義ある一歩であり、自分らしく出産を選べる社会に近づくための大切なメッセージになる」と評価しています。
ただし、無痛分娩に対する誤解や偏見にも警鐘を鳴らします。
「無痛分娩であっても妊娠中の体の変化は自然分娩と変わりません。痛みが軽減されるからといって、女性の身体への負担がなくなるわけではないのです」とし、正しい知識の共有がなければ、「楽をした」といった誤った認識によって女性が理解されず、支えられない状況につながると懸念を示しています。